
インタビュー
[インタビュー]ゲーム開発者の働き方や気質は,この30年ほどでどう変わったのか? セガのスタッフたちに聞く,当時と今の開発事情
では,開発者自身はどうだろうか。その働き方や気質は,昔と今で変化したのだろうか。そんな疑問に答えてもらうため,セガのベテラン開発者である,吉田 徹氏,大原 徹氏,寺田貴治氏に話を聞いた。
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人がいなかったから,1人あたりの作業量が大きくなった
4Gamer:
本日はよろしくお願いします。みなさんが働き始めた1990年前後から,現在までのゲーム開発現場について,お話をうかがいます。昔は自宅に帰らず,職場のイスを並べて寝ていた……といった話を聞きますが,みなさんも実際そんな感じだったのでしょうか。
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吉田氏:
1990年代のセガは,新しい事務所に必ず仮眠室とシャワー室を備え付けていました。2000年代も,当時羽田にあった1号館と2号館には仮眠室とシャワー室が残っていて,変わらず使われていたと思います。
大原氏:
会社に寝泊まりすることが前提になっていたんですよね。
寺田氏:
もちろん今のセガには仮眠室なんてありませんよ。
4Gamer:
どのような理由でなくなっていったのでしょうか。
吉田氏:
働き方改革などの影響もあるとは思いますが,依然として会社に泊りたい人は一部にいましたから,会社側の手間や物理的事情が理由かもしれません。メガドライブの「ファンタシースター 千年紀の終りに」(1993年リリース)などを開発していた時に通っていた渋谷のオフィスには仮眠室がなくて,シャワー室も屋上の空きスペースに無理やり作るような状態でしたから。
寺田氏:
最後に見かけたのは,AM(アーケード向けタイトルを開発していたAM研究開発部)が入っていたビルでした。「初音ミク Project DIVA Arcade」(2010年稼働開始)のお手伝いをしていた頃は,よく仮眠室のお世話になりましたが,2012年頃にはさすがになくなっていたと記憶しています。
4Gamer:
開発中はずっと泊まり込みでしたか。
吉田氏:
そこは個人による感じですね。会社に住んでいるような人もいましたから。
寺田氏:
私や大原のようなプランナーは“忙しくないときがない”職種なので,ずっと会社にいました。月曜日から金曜日までずっと会社で寝泊まりして,土曜日にやっと帰って,月曜日からまた会社に泊まるような生活です。あのころは締め切りが短いプロジェクトだと,もう会社に泊るしかなかったんです。まともな休みが取れるのは,プロジェクトが終わってからでした。
大原氏:
昔は,バグの修正作業に使う「チケット」が紙だったんですよ。いつ,どのバージョンを使い,どの場面でどんなバグが出たかの報告が紙に書かれて上がってくるんですが,人によっては何が書かれているか分からない(笑)。そのチケットを整理してプログラマーに持っていくのも私の仕事でしたから,大変でしたね。
寺田氏:
昼間のチェックで,バグが見つかったとします。これを翌日の朝から修正してもらいたいとすると,夜のうちにチケットを整理しないと間に合わないんですよ。ただの整理ではなくて,誰に修正を割り振るか考え,同じ担当者への修正や似たような例はひとまとめにし……とマネジメント的な側面もありました。
4Gamer:
それを聞くと,“忙しくないときがない”というのも分かります。
寺田氏:
そうやって大量のチケットをさばくわけですから,スケジュールはめちゃくちゃ過酷でしたね。夜中に整理をして,チケットをプログラマーの机に置いてやっと寝られるような状態でした。それだけ苦労しても,紙だから簡単に失くされてしまうんです。「あれだけの紙の束をどうやってなくしたんですか!?」って言いたい気分でした(笑)。
大原氏:
今はPCの管理ソフトで電子的なチケットを発行する形になりました。オンラインなので紛失することがありませんし,誰に仕事を割り振るかの指示もしてくれます。
4Gamer:
それは楽になりましたね。昔は会社に泊まり続けていたわけですが,そうなると泊まりのノウハウのようなものも身につきましたか。
大原氏:
さきほど話に出た“イス寝”もありましたし,私の場合は机の下に寝床を作っていました。段ボールを敷いて,その上に寝袋を置いて……といったように,しっかり寝て体力回復できる環境を構築していたんです。そのスペースの住環境を良くするために,いろいろ工夫しましたよ。カーテンを付けて遮光できるようにしたり,中に小さなライトを付けて漫画を置いたり……と,カプセルホテルを作るような感じで。
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寺田氏:
漫画は枕にも使えるからいいんですよね。「サクラ大戦3」(2001年リリース)で一緒に働いたことがあるデザイナーもそうした場所を作っていて,周囲からは「リオレウスの巣みたいだ」と言われていました(笑)。
4Gamer:
仮眠室があるのに,なぜ机の下で寝ていたのでしょうか。
大原氏:
繁忙期になると,ベッドが空いていないこともあるんです。好きな時に寝ようとすると,“巣”を作るのが一番効率がいいんですね。
4Gamer:
まさに漫画やアニメに出てくる「ゲーム開発者」そのものですね……。
大原氏:
自宅に帰れない中で,いかにして体力を回復させるかが重要なんです。机に突っ伏して寝るだけだと,周囲にたくさん人もいるし,回復効果も薄い。やっぱり横になるのが一番だろうということで,ノウハウが蓄積されていった感があります。
4Gamer:
そのおかげで会社に住むことができたと。
寺田氏:
ただ,泊まり込みについては大原が忠告してくれたことがあります。「HPは会社で寝ても回復する。だけどMPは削れていくから注意しろ」って(笑)。
4Gamer:
HPは体力,MPは精神力というわけですね。それは分かる気がします。
寺田氏:
確かに巣で寝てHPが回復しても,MPが切れると心が「もう嫌だ!」と叫びます。だから,週末は家に帰らないと。
4Gamer:
とはいえ,平日もずっと仕事モードでは辛いですよね。
寺田氏:
大原と泊まり込んでいた時は,一緒に「ブシドーブレード」で対戦することもありましたし。どこまでが仕事なのか分からなくなっていたような気がします。
大原氏:
私や寺田は会社に泊まって「新しいゲーム買ってきたから,みんなでやろうぜ!」というのが楽しいんですよ(笑)。そういった時間はコミュニケーションでもあって,そこから新しいアイデアが生まれることもありました。だから,みんなで会社に泊るのは好きだったし,その時間を大切にしていたような気はします。
寺田氏:
毎週のように誰かが新しいゲームを買ってきて,職場の棚が埋まっていくんですよ。
大原氏:
会社っぽくなかったですね。ある意味で部活っぽかった。特定のゲームをやり過ぎるので,ディスプレイに「××禁止!」みたいな貼り紙が掲示されたこともありましたし。
4Gamer:
ちょっと不思議ですし,素敵な感じですね。どんなタイトルが禁止されたんですか?
寺田氏:
僕が覚えてるのは「ディアブロ」かなあ。
大原氏:
「リッジレーサー」も禁止されてましたよ。常に誰かがプレイしていて,「1秒削った!」みたいな叫び声が上がるんです。それを聞いた人が「その記録,俺が破ってやる!」って。これが業務中ですからね(笑)。
4Gamer:
でも,ずっと遊んでいたわけではなくて,やるべき仕事はやっていたわけですよね。
寺田氏:
自然に仕事とゲームの区別を付けていた感じですね。昼間は仕事をしていて,19時くらいまでは秩序が保たれているけれど,夜になると誰かが好き勝手を始めるような記憶があります。
大原氏:
仕事を放っておいてゲームすることを良しとする人は誰もいなかったと思います。誰の心にも,芯には「いいものを作ろう!」という気持ちがあるんですよ。
寺田氏:
逆に,夜が更けてから仕事が始まることもありました。例えば,「サクラ大戦」チームは夜の1時から会議がスタートしましたね。
4Gamer:
オンライン会議もないのに深夜1時から会議ができるということは,主要メンバーがその時間にいるのは割と普通のことだったのでしょうか。
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寺田氏:
22時までは多くの人が会社にいて,稼働時間という感じでした。逆に朝早くから出社している人もいましたね。会社が定めている勤務時間は10時出社で19時に退社するという一般的なものでしたが。
吉田氏:
私が新人の頃は,男性のデザイナーの先輩は昼にならないと出社してこない人が多かったですね。逆に,女性の先輩は時間通りに出社されていました。
寺田氏:
メガドライブの時代ですよね。その頃は,もう泊まりが当たり前だったんでしょうか?
吉田氏:
一部の人は泊まってる感じだったような気がします。デバック期とかで大人数が徹夜するようになったのは,セガサターンの時代になってからじゃないかな。
寺田氏:
確かに,みんなギリギリまで作業していましたね。僕がセガに入った頃,ある先輩が「魔法騎士レイアース」(1995年リリース)に使う原画を描いているのを目撃したことがあります。ファイナルはいつなのか聞いたら「明日」って(笑)。
吉田氏:
「ファンタシースター 千年紀の終りに」の時も,マスターアップ直前にサウンド関係のバグが見つかったことがありました。あの時は大変でした。ただ,すべてがギリギリだったわけではありません。ソフトによっては完成してから生産まで3か月くらい寝かすようなこともありました。
大原氏:
メディアが変わると,締め切りも変わってくるんです。メガドライブの頃まではROMを焼いてソフトを作っていましたが,ROMは生産に時間がかかるので。
寺田氏:
セガサターンのときはCD-ROMを自社で生産していたこともあって,本当のギリギリまで作り込めました。「あと数時間で完成させなければならない」といったこともあって,まさに戦いでしたね。
4Gamer:
セガサターンの「ファイターズメガミックス」に入っていた開発後記の日付が発売直前でしたが,それも自社生産だからこそでしょうね。現在のセガには仮眠室もシャワールームもないようですが,それは昔より仕事が減ったということでしょうか。
寺田氏:
マスターアップ直前が大変なのは今も昔も変わらないです。それはもう戦いですし,根性が試されるところですね。
大原氏:
昔は開発チームの人数が少なかったので,1人欠けたときの影響も大きかったと思います。ですが今は人数が多いですし,スケジュールにも余裕を持たせていて,代わりの人員も準備している。つまり,我々は頭が良くなって,規模を大きくすることも含め,ちゃんと対応できるようになった……ということだと思います。
吉田氏:
今はゲームの規模が大きいので,1人の根性でどうなるものでもないですし,自然とリスクを考えた体制になったんだと思います。
寺田氏:
昔は納期に間に合わない場合,「24時間頑張ればできるでしょ」と,強引にスケジュールを合わせにいってたんですよ。今は「人を増やしましょう」となりました。昔も,人を入れる選択肢がなかったわけではないのですが,「自分ですべてやった方が楽しい」と感じていたようにも思います。
大原氏:
当時は会社に所属していない,フリーランスの開発者がほとんどいなかったのも,人を入れづらかった理由の1つだと思います。だから,人を集めるということは育てることでもありました。プログラマーだったら,UnityやUnreal Engineのような汎用ゲームエンジンがない時代ですから,自社製ツールの使い方を覚えてもらうところからのスタートでした。プランナーにしても,学生アルバイトさんから育成していましたし。
吉田氏:
「サクラ大戦」のときは,セガ社内でも3Dグラフィックスを使い始めたばかりでしたから,フリーで経験がある人なんて,そんなにいるはずもない。派遣会社さんの側でも,抱えているスタッフに技術を覚えさせるようなこともしてくれました。
4Gamer:
ゲームメーカーも,派遣会社も育てる取り組みをしていたのは興味深いですね。
大原氏:
当時のデザイナーやプログラマー,プランナーといったキーマンたちは,部下や外注さん,アルバイトさんたちから上がってきたものの修正を現在より圧倒的に多くやっていたんだと思います。彼らの力は今より大きかったということでしょうし,人数が少ないから仕事量が増えたということでもあったでしょうね。
4Gamer:
現在はそういった人手不足は解消されて,以前よりスケジュールに余裕ができたわけですが,そうなると,もの作りも変わったりするのでしょうか。
大原氏:
もの作りの基本は,多分変わっていないと思います。今でも,作ったものをご破算にして最初からやり直すようなことは起こりますから。「発売に間に合わないから,クオリティを下げろ」と言われないのは,昔も今も同じです。
4Gamer:
昔はどれくらいの人数でゲームを作っていたのでしょう?
大原氏:
吉田さんの「ファンタシースター 千年紀の終りに」は全員で8人のチームでした。プランナーもいなくて,デザイナーがシナリオを書いたりしていましたからね。
4Gamer:
大規模化の転機はいつごろだったでしょうか。
大原氏:
「サクラ大戦」でチームが100人規模になり,ものすごく多いということで話題になりましたね。アドベンチャーパートと戦闘パートが分かれていて,セガとしては珍しく別々にディレクションしていましたから。
吉田氏:
「サクラ大戦」から「サクラ大戦3」の間でも人数が倍以上に増えています。セガサターンからドリームキャストの間で,現在のような分業制がどんどん進んでいったんじゃないでしょうか。
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4Gamer:
今だと100人のチームは珍しくないですよね。
大原氏:
普通という感じですかね。100人以下だと,外注を使った際の本隊といった規模感です。
寺田氏:
昔と比べて本当に人数が多くなっているので,どうしても分業せざるをえないんですよ。それが1人当たりの仕事量に影響していると思います。セガに入ったばかりの頃,セガサターンのゲームの稟議書に「開発費総額1億5000万円」と書かれているのを見て「そんなにお金がかかるのか!」と驚いたものですが,今は「仕様変更で予算が1億円増える」ということもありますからね。
4Gamer:
セガサターンの時代には3Dグラフィックスが一般的になりましたよね。その時代に大規模化したというのは,納得がいきます。
吉田氏:
記憶媒体がROMからCD-ROMになり,大容量化した影響もあると思います。それまでのように「容量が足りないから何かを削れ」といったことは少なくなりました。逆にいえば,ムービーをはじめとして作らなければならないものが増えていったので,体制も変わっていったんじゃないでしょうか。
寺田氏:
当時は1シーン作るだけでも大変だったんですよ。「サクラ大戦2」の,霊子甲冑「アイゼンクライト」が動くシーンのレンダリングが一晩かけても終わらなかったことを覚えています。それが今では一瞬で終わるわけですからね。
吉田氏:
今はWebサイトのバナー1つが平気で100MBを超えるような時代ですからね。「メガドライブのゲームなら何本入るんだろう……」と思いますよ(笑)。
寺田氏:
CD-ROMで容量が増えたとはいえ,まだまだ制約も多かったですから,当時はいろいろな工夫がありました。「サクラ大戦」のグラフィックスは,プレイヤーには1枚の絵としか見えないんですが,実はキャラクターと背景が分かれています。ちょっと面倒な方式なんですが,こうした方が色数を多く使えるんです。
4Gamer:
大規模化が進みつつ,制約からの工夫もあったのがセガサターン時代だったわけですね。
開発者に必要なものは変わったのか?
4Gamer:
2001年にリリースされた「セガガガ」は,ゲーム開発がテーマになっていて,そこに登場する開発者は「体力」「やる気」「協調」「才能」といったパラメータで表されていました。現在の開発者たちも,このパラメータで表すことはできるのでしょうか?
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寺田氏:
現在は1種類の「才能」ではなく,「何々の才能」というようにものすごく細分化されている気がします。昔は1人で全てをやれたし,不得意なことでもやらなければならないから,「才能」のパラメータは1つで済んだんでしょう。その分,今は総合力を持っている人は昔より減ったかもしれません。
大原氏:
昔の方が「やる気」と「協調」の密度は濃かった感覚があります。プランナーは「絶対こっちの方が面白いから!」とよく喧嘩していましたし,デザイナーも,それぞれが強い個性と方向性を持っていたので,相性が悪い2人を同じチームに配属しないような配慮も必要だったと聞いています。1人の影響力が強くて,我が強い人がいて,強く意見をいうことができたから「やる気」と「協調」が今より大事だったんでしょう。
寺田氏:
確かに,20〜30年前は「こんなクオリティでいいと思ってんの!?」といった喧嘩がありましたね。
4Gamer:
そういった喧嘩がひとまず終わったとして,その後当事者たちは普通に仕事を続けられるものなんですか。
吉田氏:
私が見た範囲の話ですが,仕事上の理由で喧嘩をしてから険悪になった例はあまり見たことがありません。開発者同士の仲が悪くなる場合,それ以外のところが原因であることが多かったです。
寺田氏:
確かに,クリエイティブで喧嘩して仲が悪くなるようなことは少なかったと思います。作品を良くしようとしていることは分かりますし,終わればノーカウントにできる。
大原氏:
今はゲーム作りで喧嘩することがなくなりましたね。今の開発者たちも,強いこだわりや思いは持っています。ただ,開発チームの人数が多くなったせいで,意見を押し出しにくくなったんだろうなとは思います。同時に,昔の我々は子供だったんだとも感じます。
寺田氏:
確かに,社会人として子供でしたね。
4Gamer:
先日,大原さんと寺田さんには「SHINOBI 復讐の斬撃」のインタビューをさせていただいて(関連記事),開発スタジオのLizardCubeのメンバーが,指示されたわけでもないのにどんどん追加や修正をする,というエピソードをうかがいましたが,それにどことなく昔のゲーム開発の雰囲気を感じました。
大原氏:
我々の30年前を見ているような感覚ですね。チームは10人ほどですが,規模が小さいだけにコミュニケーションも活発です。
寺田氏:
いいと思ったものは,締め切りを過ぎても実装する。面白かったら即座にやる,という遊び心的なスピリットが強くて,昔を思い出します。「サクラ大戦」の頃なんかは,面白そうであれば締め切りが危ないのに新たなミニゲームを追加したりもしていましたから。
4Gamer:
今だと,そういった突如思いつく遊び心の実装や,ギリギリまでの手直しは難しいのでしょうか。
寺田氏:
ないわけではありませんが,ゲームの規模が大きくなって,マップ1つ作るにも数か月かかるような状態なので,そう簡単に手直しもできないんですよ。
4Gamer:
昔によくあった隠しコマンドや裏技,イースターエッグといったものも,最近はあまり見られないように思います。
大原氏:
開発者の遊び心自体は今も変わらずに存在しています。昔はマスターアップの1週間前とかに突発的に入れていましたが,今は最初からスケジュールとして制作が決められているのが違いですね。
4Gamer:
昔は開発者が黙って隠し要素を仕込むこともあったそうですが。
大原氏:
見つかった時の問題やリスクが大きすぎますから,自分がどうなるかを考えると,やろうと思う人は出てこないでしょう。
吉田氏:
コンプライアンスについても,昔とは比較にならないほど教育が徹底していますから。
寺田氏:
吉田さんも,昔は面白がって隠し要素を入れたんじゃないですか?
吉田氏:
ないよ。ないない(笑)。でも一部,いろいろなものを分からないように背景とかに描き込んでおく人がいたりしたのは事実ですが(笑)。
大原氏:
こっそりとやるにしても,その後にちゃんとした確認があればOKです。例えば,「SHINOBI 復讐の斬撃」の場合,魚市場の後ろに「シェンムー」の主人公である「芭月 涼」と思しき人物がいます。これはLizardCubeさんが事前の確認なしに描かれたものですが,その後関係部署へ確認を行っています。
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4Gamer:
自社IPのカメオ出演でさえも,しっかりと筋を通しているわけですね。
大原氏:
以前は版権周りもアバウトだったというか,絶対に許可を取っていないだろうというものもありましたね。それを見たプレイヤーも「やりやがった!」と喜んでいた時代でした。
4Gamer:
当時のゲームには,実在するランドマークやそのオマージュもよく登場していましたよね。
寺田氏:
そうですね。「サクラ大戦」では銀座の和光と思わしき場所にヒビを入れたりしたので,移植の際に謝りに行きました。「サクラ大戦3」でも入場料が必要な実在の建物を出したりしていますが,あれも当時ならではでしょうね。
4Gamer:
時代の流れで,そういった許可にまつわる仕事が増えた側面はありますか。
大原氏:
仕事は増えましたが,セガ側にもノウハウが蓄積されて,権利関係や問題が出そうな描写について,組織として考えてくれるようになっています。
寺田氏:
例えば,実在の建物を風景として使うのは問題ないけれど,その中のシンボルになるものをピックアップして商業的に利用するのは避けるべき,なんてことも会社で学びました。
4Gamer:
許可が必要になったことで,「そんなに面倒ならやめよう」となることはあるのでしょうか。
寺田氏:
委縮するようなことはないですね。セガの場合,必要であれば許可を取りに行く意識の方が強いですから。
大原氏:
こうしたコンプライアンス的な教育も専門の委員会が講習会やメールマガジンといった形でやってくれるので,そうした意味で楽になっていると思います。個人的には,入社時に知的財産権について勉強するよう言われたことを覚えています。
4Gamer:
そういったものが浸透して,今に至っているんですね。まだまだお話を聞きたいのですが,残念ながらお時間のようです。最後に,今と昔のゲーム開発を振り返ってみて,改めて感じたことを聞かせてください。
吉田氏:
昔は“手作り”の時代だったんですね。今はゲーム業界への注目度が高まって,制作環境もすべてが変わりました。でも,今の現場の若手たちも,彼らなりに楽しさややりがいを見つけて仕事をしていて,開発の面白さという部分では今も昔も変わっていないと思います。
大原氏:
昔の開発には学校の文化祭的な雰囲気が常に漂っていました。ビジネス的なことを考えるよりも,自分たちの作りたいゲームを作るという意識のほうが強かったと思います。そうした気持ちで作れていたのは,幸せでした。今は大人数でグローバルに向けて作っていて,昔とは目標が変わっていますから。
寺田氏:
皆が面白いゲームを作ろうと頑張っているのは昔も今も変わりません。昔は会社に泊ったりもしていましたが,そこまでしなければならない作業量があったかというと,少し疑問に感じられるところもあります。ただ,自分がちょっと頑張れば,ゲームがちょっと良くなる気がしていたんです。「このパラメータを10ではなく,20にすればもっと面白くなるかもしれない!」なんてことを毎日考えていました。今の開発者たちも,こうした思いをしつつゲームを作ってくれていると嬉しいですね。
4Gamer:
ありがとうございました。
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昔のゲーム開発は開発者が机の下に“巣”を作って泊まり込みながら,昼も夜もなく裏技やミニゲームを仕込んでいた。今はスタッフも増え,個々の作業負担を減らしながら,かつては考えられなかったほどの大規模なゲーム作りが可能になっている。かつては個々の開発者自身が無理をしなければならなかったことを,今では開発チームや他部署が引き受けているというわけだ。
働き方は一変したが,今も昔もゲーム開発者たちには情熱があり,ゲームを少しでも良くしようとして日々頑張り続けていることに変わりはない。その情熱の注ぎ方が洗練されたことで,かつては締め切り直前に思いついて実装していたようなことを,計画的に行えるようになったのだろう。
大原氏と寺田氏はかつてを振り返って「自分たちは子供だった」と語ったが,ゲームメーカーも成長する中で“幼年期の終わり”を迎えたのかもしれない。
一方で,小規模なインディースタジオには20〜30年前の開発現場を思わせる熱気が残っているようだ。「SHINOBI 復讐の斬撃」の開発で,かつて子供のように働いていた大原氏と寺田氏が大手ゲームメーカー側のメンバーとなり,かつての自分たちのようなインディースタジオを見守りつつ,大手ならではのサポートを行っていることには,興味深いものがある。
かつてゲームは一握りの天才が小規模開発で作るものであり,さまざまなゲーム会社が生まれた。そしてゲーム会社が大規模化する一方で,インディースタジオという新たな小規模開発も存在感を増している。ゲーム業界は,小規模開発から大規模開発,そして次の小規模開発といったサイクルを繰り返しながら,変化し続けていくのではないか,と思えた。
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